巻頭言(「愛(あい)」についての一考察)

 昨年は、NYのテロ事件を始め、「ひと」が「ひと」を殺すという無残な行為が後を絶たない一年でした。キリスト教の教えの中で、「汝、殺すなかれ」という戒めがありますが、2000年前の教えを未だに、守れない人類は、やはり霊長類として進化の過てる種であるのでしょうか。この「汝、殺すなかれ」は、物質的に生命を絶つことはもとより、精神的にも殺す、無視することをも含んでいると解されますが、この精神的に「ひと」を殺すこと、即ち、相手に「愛」を与えない行為はいかなることかを今回は考察したいと思います(いきなり難しいテーマでごめんなさい。なるべくやさしく書きますので、ついてきてくださいね)。

 さて、キリスト教でいう「愛」は、その最高の形として、「アガペー=無償の愛」を目出る行為をさします(ボラ活動も、その意味で、アガペーの愛に近いものをもっているといえます。)。この愛は、自分が貰うだけ、奪うだけの愛や友達同士の友愛(ギブアンドテイク等)とも違い、なかなか実践するのは難しい行為と言われています。しかしながら、私達の社会は、このアガペーの愛がなければ、奪ったり、取引でしか行為ができない、とても冷たい社会となってしまいます(抽象的だとイメージの湧かない人が多いようなので具体的に書いてみますね。例えば、電車に乗って、自分が座っていて、立っているのが難儀そうなお年寄りが目の前に立った場合、皆さんだったらどうしますか。もちろん思っているだけではダメで、立つという行為をしなければ始まらないのですが、立つときに、お年寄りから物の見返りを求めたりしますか?多分そうゆうことは考えないはずです。求めるとすれば、お礼の言葉くらいのはずです。また、神戸のような大地震が起こったとき、友人知人また、見知らぬ人が怪我をし、生活に困っているとき、ここで助けておけば後々メリットがあるから手伝おうとか考えて助けるなら、それは、既に「無償の愛」とは言えないでしょう。)私達の社会は、この潤滑油としての行為があるからこそ、潤いがあり、精神的に豊かな日々が送れるのです(決してお金の損得だけでなりたっていないのです)。こういった意味で、アガペーの愛は、難しくもあり、また容易になしうるものでもあります。

 さて、相手に「愛を与えない行為」ですが、これは、即ち相手の存在を無視する、無にするということであり、奪う愛や友愛すら与えない行為です(ひいては自分の存在すら否定する行為なのです)。昨今のいじめ、自殺、援助交際、青少年の非行等など、それぞれの立場の人が、無自覚、無責任そして不道徳に行った結果のものと言えませんか?存在を否定されることは、つらいことです。私達は一人で生きているわけではないのですから。存在を感じること、見ること、認識からアガペーの愛は始まります。そして、自分に今何ができるかを考え、そして行動することに繋げていきます。何も難しいことではないのです。それが、「ひと」を生かし、そして、自分の存在価値を知り、自らが生きることに繋がるのです。「情けはひとのためならず」という諺。正しい意義をもう一度思い出してみましょう(もちろん自分を生かすために他者に与えるというのは本末転倒になってしまいますのでご注意を)。  

 まとめ。相手の存在を無視する、殺すということは、ひいては、自分の存在を無価値にし、否定することになる。私達は生かし生かされていることを感じましょうね。っていうことでした(難しかったかな!?) 。