支援費制度の導入により、社会制度が大きく変わり、従来、ボランティアでやっていた土日の午後を、知的障害を持った子供と遊んだりして過ごすことや、一時預かり等は、支援費の一環として、プロ(有償)として行えることが可能となりました。数年前では考えられなかったことであり、進んだ社会制度になりました。知的障害の問題は、従来は家族だけの問題でしたが、現在では社会として、受け入れることが可能となりつつあります。
さて、それでは、私たちボランティアは、次は何を目指すべきなのでしょうか?
果たして、もう知的障害を持つ家族の悩み、子供たちのことはすべて解決されたのか?
社会の中で、子供たちは、死ぬまで幸せに生き続けることはできるのでしょうか?
それは、残念ながら、未だ、否であります。
一昔前、自分自身がボラをし始めたころのお母さんの悩みは、「子供たちを土日どこで遊ばせたらよいのか」というきわめてシンプルであり、ボラという概念がまだ普及していなかった時では、自分たち(お母さん)で遊ばせるしかないという時代でした(詳しく知りたい人は、ポラン10周年文集を見てくださいね。いっぱいいっぱいお母さんたちの想いが詰まっています)。今は、前述のように、支援費制度を利用して、子供たちは、社会が支える中で、プロの指導員が遊ばせることができます。
さて、それでは、次のステップはどのようなものか。
これは、私たち一人一人が探し出さなくてはなりません。親子で遊べる場の提供なのか。
子供たちの真の友人になることなのか、施設が作れない今、グループホームを作り出すお手伝いに力をいれるべきなのか。もっと違った形でのヘルプが可能なのか。
私自身も模索中です。ともあれ、ボラの理想もありますが、何よりも、お母さん、お父さんの求めるものが明確になっていかなければ形になっていかない。。。
対して、最近のニュースでは、子供が子供を殺してしまうという、なんともやるせない事件が多くあります。判断能力が未熟である子が、子を殺めてしまう。一昔前であれば、特異な事件だったのに日常茶飯事のように起こっている日本はやはりどこか狂ってきている。「命」の大切さを体現していないことの証拠なか?自分のことしか眼中にないから、他者の立場を理解できないから(これはこれで難しいですが)、なのでしょうか?
心の教育が謳われて久しいですが、実効性はどうなのでしょうか?
私自身、所謂戦後教育を受けて、学生時代道徳などの時間は皆無だった、偏差値教育の真っ只中にいた世代です。ボラの世界に足を踏み入れたのは、逆に恵まれたと思っています。ボラの世界をしらずに、普通の社会人として一生過ごしていたら、そして、晩年になって、この世界を知ったとしたら、まさに後悔先に立たずだったに違いありません。
また、ボラをやっている中で、「自分のためにしているのだから、そしてそれが周りの為になっているから良いんだ」という意見と、いや、「無私の心で、常に他者優先でやるべきだ」という、相反する意見をよく聞きます。これは生き方にも繋がりますが、前者の場合で言えば、自己満足、自己中で、他人が本当に満足しているかどうかはお構いなしでは困りますし、後者であれば、押し付けに通じたり、思い込みでやったりでかえって迷惑になったり、無私の心といいつつ、実は奥底では見返りを求めていたりでは、どうにもなりません。どちらの生き方考え方が妥当かは、各人が決めるべきことですが、最終的に、その行為が、ほかの人の助けになったかどうかなのではと、感じています。
さて、次なる社会を創りだすのは、私たちひとりひとりです。どのような社会を創るかは、一部のリーダが決めるのでもなく、私たちがこうしたい、こういう社会にしたいと望んで創っていくのです。「地域で生きる」「開かれた社会」のスローガンに具体的な魂を入れる作業は、地道で辛いことも多いですが、その実現の一翼をボランティアが担っていると信じて、息長くやっていきましょう。
貴方は、どのような社会を創っていきたいですか? /プロペラ代表 熊川 英輔<