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巻頭言(レクイエム)
「人は死して何を残すのか」
自分の人生を考えた場合、果たして将来何か残すことができるのであろうか?これは、僕の小さな畏れである。自分の大きな邪まな欲望が、小さき喜びを見落とし、(それは、足元に咲く一輪の小さき花を見落とすように)、大切なものを失わせる。人は失くして、その大事さをわかるのであろうか。一瞬一瞬を大切にしたいと思いつつも、慣習の奴隷となり、疎かに過ごした日々の多さに今も呆れている。
私自身、現在の知的障害をもったみんなと過ごす時間を重ねるに従って、人の幸せとは何なのか、本当に現実的に考えるようになった。人は、母の胎内から生まれ、そして成長する過程で、様々な知恵を持ち、人生に対する希望や夢を持ち、それを成就させようと動く。その人生経験を積む中で、公共性を身につけ、よりよい社会の一員として活躍する。その中で、「生きがい」を見つけ、「生きている証(あかし)」を求める。生きがいの欲求がどこから来るかは人それぞれ探すとして、それを求めるのはみな、「喜び」が欲しいから。最近では、よく「心地よいこと」=「快」という言葉も使われている。一生心地よい状態で過ごせたらなんと幸せな人生ではないかと考える。それは、多分お金では買えないものであるのだ。
現代社会が、人が上記の「生きる」為に本当に成り立っているのか、社会が「生存」する(生き残る)ためにシステムができているのか、今もう一度深く考える必要がある。法や制度は、人を幸せにするためにこそ、その存在意義がある。社会制度自身を守るためのものでは、決してない(仕組みを壊していいという意味ではないです)。そして、それが、人の目を曇らせ、人の本当の幸せを見つけにくくする。生きることが何かの指針を与えられなく抽象的な言葉と技術のみで人を枠に押し込めてしまう。
さて、私の心地よい状態は何か。それは、「人」の笑顔をみることのようである。活動での子供たちやお母さんたちの笑顔、ボラの笑顔が、私の「快」である。
「かの人の笑顔に心震わせて ポラーノの孝 ここにあり」/プロペラ代表 熊川 英輔