プロペラvol.14<1999/5,6月号>

現代杜会の警笛(2)
ひなまつりあ〜んど卒業パーティー
私から一言
手話で話そう・指文字を作ってみよう
自己紹介にかえて
いいよ これ
事務局からのお知らせ

現代社会の警笛(2) 前回は、地球環境のことを書きましたので、今回は人間教育の必要性を書いていきます。(ここでいう教育は受け身でなく自主的におこなう意)
 私達の社会は過去から現在そして未来へと継続的に連なるべきものであります。現在を構成しているのが私達大人とすれば、未来を形成するのは現在の子ども達であります。そして、その又未来を継ぐものはその又子どもということになります。その子ども達に私達はいったい何を受け渡そ立としているのかもう一度考えてみる必要があります。決して現在の風潮である自分の為にだけ生きているということはないのです。将来に何を残すか<言葉を変えれぱ何を残さないか>、これを指標(合言葉)として今一度考える必要があるのです。何故なら、私達は今を生きるとともに未来にも生きているからです。
 これまでも何度も書いたように、私達は決して一人で生きているわけではありません。人は、一人で生まれ一人で死んでいきますが、生きている 間は一人では件きていけないのです。他者との繋がりの中で生かし生かされています。それを説いていたのが古くは原始宗教であり道徳でありました。その中で悪いもの現代社会に適合しないものは切り捨て、取捨選択する、そして良きものを残す努力をする時期に来ている。いや、その取捨選択ができなけれぱ、杜会の秩序が乱れ、内部崩壊していまうのがもう自明の理となっています。
 社会は個々の人間によって構成されています。従って、社会は、個々の人間がその人生において何を最重要にするかによってその質が定まります。健全な社会の発達には、人の賢明さ、賢さ、自分中心の価値観ではなく、広い視野に立ったものの見方が必要なのです。
 仏教的な言い方をすれば「他者を生かす」。キリスト教的には、「愛」(アガペー)を与える。日本的に言えば、「和をもって尊しとする」。現代的に言えば、第三者の立場に立って物事を考えるでしょうか。
 人間が将来の子孫を残すこと一これは他の動植物と同じように自然の摂理、本能かもしれません。しかし、人間には知性と理性があります。知性は善いことにも悪いことにも応用ができます。それを制御する役目である理性は、鍛えられて育つものであります。自由と責任が一体のように、知性と理性も表裏一体のものであります。
 学校崩壊、少女売春、いじめ、自殺、殺人、子どもを愛せない親、一部かもしれませんが社会崩壊の兆侯はでています。今はほんの一部かもしれませんが、50年、100年経つとどうなるのでしょうか。何もしないでも将来それらの間題は無くなっているということはありません。対岸の火事的に見たり、目をそらしてはいけないのです。未来の社会がないとしたら、それは未来の子どもの責任ではなく、私達の責任ではないでしょうか。

ひなまつりあ〜んど卒業パーティー

 先日、3月13目にちょっとだけ遅い、ひな祭りパーティーをふれあい福祉センターでやりました。いつものように、みんなでおもいっきり遊んでおなかがぺこぺこなって戻ってきてみたら、お母さん達がおいしいものをたくさん用意して迎えてくれました。メニューは、具だくさんのとん汁、ほかほかのたきこみごはん、お赤飯、m川さん家のあっぱれお手軽フライドポテト、やきたてワッフルケーキ、クッキーそしてあったかい甘酒と食べきれないほどたくさんありました。目移りするほどのごちそうを目の前にし、みんなびっくりしてしまいましたが、一通り、どれもおいしくいただきました。
 今回は、ひな祭りパーティーに加えて、あきちやんとみゆきちゃんの卒業パーティーもしました。お祝いの品として、あきちゃんにはネクタイを、みゆきちゃんには口紅が贈られました。二人の主役は照れていましたが、とってもよろこんでくれました。もう二人とも、社会人になるんだなあとのんきに思っていたら、そういえば私だってそろそろ考えなきゃいけないんじゃ…とは思ったんですが、まあなんとかなるべ、いざとなったら永久就職の道が…あったらいいな、と思う結局ちゃらんぽらんな私でした。

P.S.あきちゃん、みゆきちゃんお仕事いろいろ大変だと思うけどがんばってね!!

私から一言

こんにちは。S田 Yです。 はじめてプロペラの活動内容を見学させていただいたのがたしか、二月下旬くらいだったとおもいます。今となってはぽかぽかと暖かい陽気になってきたとはおもいますが、見学した当初はまだまだ厳しい寒さが僥いていました。それはさておき、プロペラ(ボランティア活動)に入会した理由といたしましては、とりあえずきっかけがありました。詳細につきましては、これから書く文章を御覧ください。
※あまり堅い文章にならないように書くようにしますが、もしも内容が堅くなってしまいましたらご了承ください。
きっかけとしては、私自身、体に`障害'という特徴をもっており、その特役を何かにいかせないだろうかと思ったことです。幸いにして私の場合は普通の人の日常生活における事についてはだいたいすることができますが、そのなかでもどうしても他の人にはできても自分にとっては正直いって困難なことがいくつかあります。そこで思いついたのが〃自分にしかできないこと〃という事です。その事を自分なりに試行錯誤のうえ考えついたのは、ボランティア等の障害者と触れあう、また言い方をかえれぱ障害者をもっと理解してもらう、そう自ら感じることで自分自身も自然と今までよりも一段とパワーアップする、すなわち自分自身も成長させるということです。
私自身杜会人としてちょうど一年になりますが、私の入社した会社がまだできて若いせいか、障害者を受け入れる体制がまだ完全にはできていなかったのです。でもって私のような障害者が入ったら結果は決まっています。普通の人とは完全には同じように働くことができないから正社員ではなく、嘱託社員という役付けで採用ということになったのです。前述の嘱託社員という役付けは入社当初の役付けで、もう入社してから一年以上経っているので六月くらいにはとりあえず見直しが見込まれる予定です。それで気づきました。大半の会杜は障害者採用とうたっていますが、事実、条件付で採用というどころも少なくないようです。なぜ前述のようなことが起こりうるかというと、企業側の障害者に対する対応が遅れているというのがもっともの事実だと思います。そういった状況を把握するのは現状では非常に難しいことで はありますが、改善すぺき点だとおもいます。
現状からすれば、そういった考えにあまり積極的ではないのは、会社からすれば障害をもった人間を採用するよりも健全な人間を採用するほうが、会社にとっては利益になるにきまっていると当然のことながら思っていることでしょう。ただ一番大事なのは両者とも〃おなじ人間〃なのです。世間一般ではまだまだ障害者を“その人がもつ個性"としてとらえていないのがほとんどだといわれます。そういった撃(心の壁)を創りだしているのは我々おとななのではないだろうか。残念なことに日本では子供のころに障害者に対する教育指導などがなされていないのも事実です。幸いにして子供にはまだ障害者に対する心の壁というものが存在しません。子供というbはすべて本音で話しかけてくるから、こちら側もすぺて本音でいってしまえばあとはもう簡単、なんでもありという状態です。そういった子供のころに教育をすれば現在に至るようなこどは少なくなるのではないかとおもいます。まだまだこういった障害者を目にする機会が少ないせいか、そういらだごどをするということは難しいとはおもいますが、絶対にそのことは必要です。やっぱり、この壁をすこしでもなくすように心掛ければ、そのようなことは間違いなく少なくなります。書いたこと自体、私の経験に基づいたことがほとんどなので参考になるかどうかわかりませんが、ここはひとつぜひとも目を通してやってください。

手話で話そう・指文字を作ってみよう

手話イラスト画像 その2
自己紹介にかえて

S.Y.

−心のなかに「自分のするべきことは何なのか?」という漠然とした問いかけを抱えながら青年時代を過ごしたひとびとというは、一世代かあるいはもっと以前の世代の人たちだったのだろうか…−
 今時の大学のなかで話される学生の取り留めも無い会話を側で聞いていると、長いモラトリアムをより多くの人たちが享受できるようになった今日の日本社会のもたらした負の面ぱかりを目の当たりにしているような気がしてなりません。気を抜けぱそんなまわりの雰囲気に流されて自分を見失ってしまいそうになるのが不安で、そんなぬるま湯のような現実のなかから飛び出して、何か自分の傾倒できるようなことを必死に捜し求めてきたよラな、そんなここ何年かでした。

 先日ポランの活動に参加させていただいたときに「ここの子どもはみんな水が好きだから…」とそう教えられて、「なるほど」と感じたのはトイレの水道に取りすがって離れない子どもをずっと側で見守っているときでした。
 はじめはすぐに飽きるだろうと思いながら、じっとその子の隣で、彼のしていることを眺めていたのですが、そのうち時間が経つにつれて私も正直なところ疲れてきました。「どうしてこの子は飽きずに同じことばかり繰り返しているんだろ」トイレに入ってくる事情を知らない人たちが、時々不思議そうに私たちの方を見るのを見返しながら、私はそう考えました。すっと私がここから離れて何処かに行ってしまったとしても、この子はきっとそんなことは気にもかけずに何時間でも遊び続けるのだろうか、彼の少しも私の視線を求めようとしない態度が、私にそんな疑念を呼び起こしました。
 障害のある子どものもつ世界は、彼のこころのなかでのみ完結する、いわば世間から取り残されていくものなのでしょうか?私たちが普段何気なく現実杜会と呼ぶ世界とパラレルに進行していくようなものとして。障害児との関わりの浅い私にはまだ立ち入れない間題なのかも知れませんが、似たような風景をときどき別の局面で垣間見たりしたことがあって、つい今回も人と人と関わりについて深く考え込んでしまいました。

 …私はまだ学生なので、立ち入ったことについて多くを語るには経験に乏しいのですが、いずれ“答え”と言えるようなものを自分のなかに作り上げていきたいものだと感じます。「障害のある人たちへ理解を深め…」と格言通りの言葉を繰り返すのではなくて、じいっと私の見つめた子どもの瞳が、、私の知りたい答えを伝えてくれろような瞬間に巡り会える二とを期待しています。

いいよ これ

☆川は生きている☆(富山和子 講談社青い鳥文庫)
 この本は、児童向けに書かれたとても誘みやすいものです。
 表面的にみれぱテーマは『環境間題』ということになりましょうが、実際にはそんな限定されたものではなく、われわれ人間が自然と仲良く創りあげるこの世界、ひいてはわれわれの在り方をみつめ直す機会を与えてくれるものです。この著者の素晴らしいところは事物ひとつひとつそれだけを事体として切り離してみることなく、全体という視野にたってみる視点にあります。

川というものは、目の前の水だけしか見なかったり、また、川原の草とか、堤防だけしかみないのでは、なかなかわかりません。上流の森林や、まわりの水田や、道路や家のたてぐあいまでを広くながめ、水がどんな旅をしてくるかを考えて、はじめて、川のほんとうの姿がわかるのです。

 つまり川は川だけで川として存在しているのではなく、土や森林などとの連携プレーで川としてあることができるというのです。そしてこの営みに土や森林はとても大切な役目をもっているともいっています。

森林は水をじょじょにたくわえ、じょじょに、じょじょに、はきだしてくれます。来る日も来る日もおなじように、水を送りつづけてくれます。この、「じょじょに、いつもおなじように水をおくりつづけてくれる。」ということこそ、森林のもつかけがえのない働きなのです。

 土や森林がなけれぱ、水が一度に地表を流れれぱ洪水になり、水が留まらないので、水不足という事態になる。それを適度にたくわえ、適度に流すことでわれわれ人間が生活しやすく、かつ生きていくうえで欠かすことのできない飲料としての水をいつでも提供してくれ、さらにある程度、洪水がおきにくいようにしてくれているということらしいのです。それは旱魃などのおり、タムが干上がっても、その周囲の山々からは毎日水が流れ出しているということからも明らかなようです。ところでこのタムというもの、このダムは旱魃などのとき水不足になって困らないようにと造られたもの(いうなれば自然に打ち勝とうとしたもの)ですが、そのダムが干上がったのちに自然に助けられるというのは途方もないジョークですね。またこのジョークはするどい示唆をあたえてくれています。このダムというものは人間が頭で考えたものですね。それは「万が一のときに便う水をどこかに貯めとけばいいじゃないか。それからその水が土にしみこんでしまわないように川をコンクリートで固めてしまえ。こうすれば水不足から人間は永遠に解放される。おれはなんて頭がいいんだ」と。どこかのユートピア主義者の言葉のようですね。」ですが、これがわれわれ人間の多くに共通する傾向なのです。ある物事を全体から切り離し、その‘部分'という幻想のなかで夢をみつづけているのです。そんなわれわれに自然は微笑みながらこう言っているかのようですがあなたたち人間だけではなにもできないのだよ。わたしたち自然があってこその人間なんだ。人聞は自然とともに歩調をあわせてこそうまくいくんだ。ひ とり先走ったところで転ぷか、道に迷うのがおちだよ」と。
 この『川は生きている』のシリーズとして他に『道は生きている』『森は生きている』があります。これら三冊は著者がいっているように、三冊を読んではじめてひとつのことがわかる、のです。それらは別々に離れているものではなく、全体というひとつのある側面だということではないでしょうか。
 著者は後書きでこういいます「物事を総合的にみるということは、頭のやわらかい子供のうちに教えねぱおそいjと。しかし現在の杜会、教育はますます'部分’しかみれないような人間をつくりあげる方向に進んでいます。
この部分しかみれないということからあらゆる問題が生まれてきている、と思っているのは私だけでしょうか。それなら、それを指摘していただくために、ぜひ誌んでみてください。
「おれは環境問題なんかに興昧ねえもん」
 それでもけっこう。環境間題なんかに輿昧をもっ必要はありません。川や森林その他あらゆるものの生い立ち、つながりを理解するだけでいいのです。
「わたしは深く考えたくないの」
 それもけっこう。深く考えたところで何も得るものはないのですから。どういう意味か、などと考えずに、ただこの本から響いてくるものを聰き、感じ取ってみてください。最後に著者の印象的な言葉を聴いてください。

 森林は落ち葉だらけです 森林には動物の糞もあります
大きな動物や小さな動物の死体もあります ヘビの抜け殻もあります
考えてみれぱ森の中はゴミだらけです
それなのに森林からでてくる水はきれいです

事務局からのお知らせ

○先目の4月29目(みどりの日)に伊奈町の楽市楽座に出店してきました。K.みゆきちゃんの雑草(あらぐさ)も出店しており、みゆきちゃんがつくった(だろう)クッキーなども売っていました。快晴の中、事務所にあった不要品もだいぶさばくことができました。ご協力頂いた皆様ありがとうございます。少ない活動資金の一部として使っていきたいと思います。(売上28,405円)また、家庭に眠っている不用品がございましたら、提供ください。よろしくおねがいします。
○ポランの広場(知的障害児との交流の場)は、今年は外に出る機会がどうも多いようです。4月には伊豆の潮風館、5月には群馬の華厳寺(あおぞら号使用)、6月にはこころみ学園見学(あおぞら号使用)、7月にはまた潮風館、8月には河口湖旅行と目白押しです。いよいよ飛躍の年到来か!もちろん、通常活動も大切にしていきます。
○えくぼ(「知的障害者の暮らしを考える集い」)の活動も徐々に軌道に乗ってきました。ポランの広場おなじ知的障害児との交流を目指すグループです。このようなグループがたくさんできるといいですね。
○マザーランドヘの協力がこのところおろそかになっていましたが、5月5日(子どもの日)に久しぶりの事務所で衣類の荷物詰をしました。ダンボール5箱ほどになりました。また、広島の方からもうちのホームページ(アマダマン製作)を見て荷物を送ってくれました。ありがたいことです。この荷物は、5月のどこかの火曜目のマザーランドに持参する予定です。(マザーランド…アフリカの子ども達に日本から衣料や食料を直接送るお母さんたちのグループ)
○伊豆の潮風館旅行の話を少し。4月10日―11日に一泊旅行をしてきました。バスの運転手はなんと森川さんちのお父さん。あいにくの雨模様でしたが、1日目は下田の水族館でいるかやあざらしのショーを見ました。夜は勿論カラオケ大会。そしておきまりの卓球(失礼ピンポン)。綾ちゃんが腕前発揮していました。潮風館は、埼玉県が障害者の為の施設として運営している旅館です。2目日には、サボテン公園へ行ってきました。ここでもおさるさんのショーが見られてとても楽しかったです。7月も行く予定ですが、参加希望の方はお早めに。
○定例会は、5月は15日(土)、6月は19目(土)にそれぞれふれあい福祉センターで開催します。ポランの広場の活動の後にします。 〇6月6日は、第2回目のポランの日曜活動です。土曜目に仕事や学校で参加しにくいボラを対象に企画しているものです。前回は、ソニックビルのテプコで遊びました。

戻る

表紙に戻る